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「調べる」行為と作品のリアリティ −ある作家の講演から− NEW

「皆さん、よい百科事典や専門事典を買いましょう。また使い切りましょう。ウィキペディアを判断材料に使うようではダメです」。
  先月、作家の花村萬月氏の話を聴く機会があった。『実践的な小説の書き方−執筆および選考の現場から−』と題し、京都の花園大学で開催された講演会である。生と死、暴力とエロスを類まれな生理感覚で描く花村氏。作品執筆の当事者として、著名な文学賞の選考委員として、生々しいまでの創作と評価の舞台裏を開陳してくださった。そのなかで、作家たちの「調べる」行為の熾烈さが語られたが、その際、発せられたのが文頭の言葉である。

  まず、「小説は描写に尽きる」と断ったあとで、いかに調べものが大事かを示すために、ある文学賞選考会で最終選考に残りながら落選した応募作品を例に、次のとおり紹介された。
  「その作品で、蛇のヤマカガシが出てくる場面がありました。描写記述で、“みどり色”としているのですが、選考委員は興ざめしました。みな子供の頃からヤマカガシを見たり、捕まえたりして知っている。ヤマカガシは実は褐色なのでこれはおかしい。ウィキペディアを安直に使ったのではないかと検索すると、画像が貼り付けてあり、撮影の仕方で色目がみどりっぽく見える。なるほどこれを参照したのではないかとなりました。こういう話になれば、受賞は難しい。作家を目指す方は、調べる能力をしっかり磨いてください」。 
  厳しい――。単なる描写ではなくて、小説のなかで象徴的な意味を持たせる描写の場面でウソが発覚したのであろう、と私なりに判断した。さらに追い打ちをかけるように、真に迫った別の事例が示された。
  「このあいだも、山本周五郎賞の選考委員会でもめました。とてもよくできた時代小説作品でしたが、江戸時代に詳しい北原亞以子先生などは激烈です。候補作品の叙述のなかで、ストーリー展開の鍵になる木戸が閉まる時間が間違っている。江戸時代、こんな時間に木戸は閉まらない。プロがこんなものを書いてはダメだ、と反対されます。ボクは北原先生を“考証原理主義者!”と呼んでよく喧嘩をしますが、プロの鑑識眼とはそういうものなのです」。
  作品を刊行すればベストセラーになる、あるいは話題になってよく売れるという作家がなぜか文学賞には無縁、ということがある。常に候補に挙がるが、なかなか受賞できない。こうした作家たちは、上述したような瑕疵を引き摺っているという。
  なるほど、小説はフィクションである。しかし、そこでの描写は真実を映していなければリアリティを保持できない。だからこそ書き手を目指すひとは、時代小説であれば、どんなに高額でも『国史大辞典』など定評のある事・辞典を買い込んで(図書館を使えとは言ってほしいが)調べてほしい。現代に題材を採る作品でも同様に、定評のある参考図書を利用して調査してほしい。ウィキペディアを参考にしてもいいが、最終的には典拠が示され十分な校閲を経たツールで裏を取ってほしいとの訴えは、印象深いものであった。

  休憩がてら、ここで少し話が脱線する。
  作家の能力のコアは正確な描写力であり、調べる力が求められることがわかったが、加えて、尋常ならざる記憶力も必須だと作家自身が陳べているのをよく目撃する。村上龍氏は観察したものはなんでも――大氷河の風景から人物のちょっとした仕草まで――誰も覚えていない全体や細部を、写真や映像のリプレイの如くに頭の中で克明に再現でき、それを描写するという。 
  山田詠美氏も「作家は記憶力だ」と言い、最近の論壇の寵児・佐藤優氏も同様だ。対談相手のコーヒーを飲む仕草、机上のタバコのボックスデザイン、質問に反応した際の相手の目の動き……が再現できる。ついでながら、あわせて覚えておきたい。

  閑話休題。本来の調査力へと話を戻す。
  他にも、近代文学研究者から聞いたところでは、永井荷風は『墨東綺譚』の新聞連載時に「戸籍謄本」としていたところを、単行本では「戸籍抄本」に改めている部分があるらしい。これも「抄本」としなければ成り立たない、描写のリアリティ保持のために、彼自身が気づいて改稿したものなのであろう。
  また自分の知らない過去、例えば19世紀パリを舞台に叙述するような場合はどうするのだろうか。これは鹿島茂先生のように、当時の風俗を図版で活写した、その時代の新聞・雑誌、参考資料群を神保町の古書店で買いあさり、確認しながら執筆することになる。出費が嵩むと鹿島先生はこぼしておいでだが、こうした必要性の根拠を、花村萬月氏のお蔭で改めて思い起こすことができた。

  世間でプロと呼ばれる人たちはどのような動機で調べものをしているのか。どのような文脈で知識や情報を探しているのか。その探索行為に適った参考ツールは何か。今回は作家という限定されたプロの話であったが、さまざまな「調べる」行為を射程にいれて、今後ますます質の高い参考図書が企画され、生み出されることを期待したい。最後にこの点を強く訴え、参考ツールの企画編集を担う人たちにエールを送りつつ、この連載を了えることにする。

大学コンソーシアム京都 井上真琴
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    2009/8/4UP

井上真琴氏の肖像(代)

井上 真琴 <いのうえ・まこと>

(財)大学コンソーシアム京都 副事務局長
1962年京都市生まれ。1986年以来同志社大学職員として教務事務、システム開発、図書館業務し、図書館ではレファレンスサービス、資料選択業務を担当する。学生利用者の図書館活用能力向上を祈念し、ちくま新書『図書館に訊け!』を刊行した(2007年度私立大学図書館協会賞受賞)。同志社大学社会学部嘱託講師(科目名:学術情報利用教育論)を務める。

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